杉並区の公共劇場、杉並区立杉並芸術会館、通称”座・高円寺”が5月1日の開館を前に、開館記念式典とパーティを4月26日に開催した。
当日は午後1時から開館記念式典として、民踊花笠音頭や、中学生の吹奏楽演奏、杉並区長らによるテープカット、山本東三郎さんの「三番三」、ねじめ正一の自作詩『高円寺の子』の朗読などが行われ、開館を祝った。
午後5時からは演劇関係者による開館記念パーティが行われ、渡辺えりの司会で、館長である斎藤憐らによる鏡開きと小田島雄志による乾杯があり、別役実、渡辺美佐子、流山児祥の祝辞と、座・高円寺1で5月末から上演される流山児★事務所のブロードウェイミュージカル『ユーリンタウン』出演者によるタイトルナンバーが上演された。
渡辺美佐子の挨拶
今日は高円寺の町の方たちが大勢来ていると聞いて緊張していたんですが、お顔を拝見すると演劇関係の方が大勢おいで下さってるので、なんてご挨拶申し上げればいいのか分からなくなって困っちゃってるんですけど。でも、一昨年、25年間『化粧』をずっと育ててくださった地人会が解散してしまって、『化粧』はこれからどうなるのかなあ、もうこれでおしまいなのかなあって思っておりました。そうしましたら、さきほどご紹介いただいた(斎藤)憐さんとか(佐藤)信さんとか、坂手さんとか、しょっちゅう会って芝居の話をしている方たちが、ここで『化粧』をやってくださるとなって、ああ、嬉しいわねと思っていたら、いつの間にかこけら落としで1か月、ええーって、あまりの光栄なことで私もビックリしてしまいましたけど、今は高円寺の町の方たち、中央線沿線の方たち皆さんに親しまれる劇場になっていただきたいという思いでいっぱいでございます。そういう気持ちで毎日けいこをして、こけら落としの5月1日を迎えるつもりでございます。地域の方たち、杉並区の方たち、東京都の方たち皆さんに愛されるような小屋にぜひぜひなっていただきたいと心から願って、その気持ちをいっぱい込めて『化粧』を1か月やらさせていただこうと思っています。
別役実の挨拶
開館おめでとうございます。さっき、2階の事務所で打合せをしまして、どんな話をしたらいいかっていうのをえりさんから聞きましたら、「笑いをとる」ということでした。当初は最初に鏡割りをしまして、その後におめでとうございますってひと言だけ言ってくれればいいですっていう、そういう話だったんですね。だから笑いをとるっていうことについては無計画で、とれるかどうかわからないですけど。ただ、紋切り型の挨拶ですけど、こと、ここに至るまでの関係者の労苦には心から敬意を表したいと考えております。いい小屋になったという感じがしますね、小屋って言っちゃいけないんですけど。ただ、僕らは別におとしめて言うんじゃなくて親しみを込めて言わせてもらうときに「小屋」ってよく言うんですね。そういう「小屋」っていうのに非常に相応しい空間だなって感じがしました。なんとなく新しい劇場を作ると、非常に取りすました感じがして、なんか入りにくいということがありますけど、ここはそういうことがなくて、しきりに関係者は街との結びつきということを言ってましたけど、その街との結びつきも尾錠にスムーズに行えるんじゃないかなと言う感じがしました。僕は人だかりという言葉がわりと好きでして、人だかりからものが生まれるというのが演劇にとって最も原始的な装置のひとつじゃないかと思うんですけど、その「だかる」、「だかる」っていう言葉もあまり良くないですけど、僕ら集まってわいわいやりながらことを生むのに、非常に相応しい現場ができたんじゃないか、そういう感じがします。そういう中から生まれる新しいものを期待して、ご挨拶にしたいと思います。笑いがなくて申し訳ございません(笑)。
渡辺えりの挨拶
芸術監督の佐藤信さんが、「広場ではない、空き地にするんだ」とおっしゃってた言葉が非常に印象的です。私たちが子どもの頃は、空き地でどんなことでも出来ました。かくれんぼでも鬼ごっこでも、座談会でも。座談会じゃないか、泣きながらの人生相談とか(笑)。空き地って言うのはなんでも出来るんですね。ゲームだけではなくて、いろんな喧嘩も。とにかく自由なスペースとして地元の人も私たちも、いつも遊びながら、コミュニケーションがどんどん少なくなってきた昨今ですけど、そこでひとつ世話焼きおじさん、おばさんになって、一生懸命若い人たちの面倒をみながら、なんだかんだ口を挟んでやっていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
流山児祥の挨拶
唐突に上に上がりましたが、私は5月28日から、座・高円寺1、この舞台で初の演劇公演となるブロードウェイミュージカル、『ユーリンタウン』を上演する流山児★事務所の流山児祥と申します。中野の稽古場から歩きながら、いろいろ思い出しながら来たんですけど、僕の演劇人生はこの高円寺、阿佐ヶ谷から始まったんですね。1967年に新宿の花園神社で赤テントの公演が行われました。それを観て僕は衝撃を受けて、1968年に杉並区本天沼っていうところがあるんですけど、ちょうど高円寺と阿佐ヶ谷の真ん中辺りです。そこに唐十郎さんの主催する劇団状況劇場の稽古場がありました。それに入団して研究生になったのが僕の演劇活動の原点です。当時の状況劇場の稽古場は平屋で8畳の畳の間がありまして、3畳か4畳半くらいのキッチンがありました。そこにトイレがありまして、トイレはまだくみ取り式でした。研究生の仕事はまずそのトイレの掃除をするというところから始まったのです。でも当時の状況劇場はたった11人しか劇団員はいませんでした。思い起こせば、その時、李麗仙さんのお腹の中に大鶴義丹さんがいたんですね。それが僕の演劇活動の原点だと思っています。その翌年に僕は別役実さんの『門』というお芝居で初演出をして、2番目の作品として佐藤信さんの『あたしのビートルズ』という作品を演出しました。1970年に青山学院大学の全共闘の連中と演劇団という劇団を立ち上げたわけです。由緒正しい全共闘の劇団だと私は宣言しています。なぜなら当時青山学院大学の全共闘議長の新白石と私は副議長だったからです。1983年に寺山修二さんが亡くなって、寺山さんの遺作の『新邪宗門』という作品を上演して、演劇団の活動を終えて、84年に渋谷のジァン・ジァンで流山児★事務所を『さらば、映画よ』という作品で旗揚げしました。40年間で300本以上の芝居をやりましたが、今年事務所の創立25周年に何をやろうかと考えて、今までやったことのないものをやろうと思いました。歌舞伎もやってるしオペラもやりましたが、考えたらブロードウェイミュージカルだけはやってませんでした。ということで、俺たちにしか作れないブロードウェイミュージカルを作ろうと思ってます。幸い、坂手洋二さんが上演台本を書いてくれました。4月13日から、この劇場の素敵な稽古場で稽古に入っています。それと週末にはユーリンタウン祭りと称しまして、大道芸フェスティバルに続いていろんな大道芸をやっている人やダンサーだとかミュージシャンだとか、阿波踊りの人たち、中野のエイサーの人たち、インド舞踊団などなど、訳の分からないことを劇場の内外でやってみようじゃないかと思っています。この劇場が広場で空き地であるなら、それの実験を最初にやってみようと思っています。寺山修二さんは高円寺と阿佐ヶ谷で市街劇を上演したことがありますが、その意味でこの街はそういうった市街劇に最も相応しい場所だと思っています。自由度の高い劇場として、皆さんも演劇人も劇場人も、そして杉並区民の皆さんと観客の皆さんといっしょにもっと日本に自由性をもった劇場にしていきたいと思っています。
コメント